こんにちは、しんり研究家の山形竜也です。

突然ですが、「自分を愛する」って難しくないですか?

自分を愛することは、人生を幸せに、そして豊かに生きていく上で、とても大切なこと。心理セラピストとして、クライアントさんにも「自分をもっと愛してあげてね」と言うこともある。もちろん、自らも自分を愛することを実践してきたからこそ、その大切さが身に染みているから。

でも、今でも自分を100%いつも愛せているかと言われれば、まったくそうとは言えない。その道を探究しながら、迷いながら歩んでいるのが現実。

自分を愛するって、どんなことなんだろう。何が起きるんだろう。と思いながらやってきて、振り返ると約8年経っていた。

備忘録も兼ねて、ここまで歩んできたプロセスを晒しておこうと思う。

正直なところ、「自分を愛する」って、これほどまでに難しいものはなかった。

僕と同じように、自分を愛することが難しいと感じていたり、諦めてしまった人がいるなら、少しでも役に立ちたい。

だから今回は、僕が「自分を愛する」ことを8年やってみたそのプロセスと、現段階でたどり着いた結果をシェアしようと思います。

自分を愛することを8年やってみた結果・・・

自分を愛することを8年やってきた結果、振り返ってみると4つの段階を経てきた。

  1. モラハラ期
  2. わかば期
  3. 混乱期
  4. ご自愛期

それぞれ順番に、どんなプロセスだったかを紹介します。

1.モラハラ期

1.モラハラ期

プロフィールにも書いている通り、うつ病をきっかけに心の世界に飛び込んだ僕。

当時の僕は、自分を愛するなんて聞いたこともなかったし、聞いたらきっとバカにしてたような世界で生きていた。

会社員として必死に働きながら、社会に認められよう、会社に認められようと休みを返上し、遅くまで働いていた。

頭の中で、僕は僕にいつもこう言ってた。

「契約取れなかったからって落ち込んでる暇なんてねーんだよ!」
「ほら、ぼーっとしてないでさっさとやれよ!」
「今度こそ会社の役に立たないと、見放されるぞ!」

どれだけ体調が悪くても、
「真剣に仕事やってないから体調が悪くなるんだよ!しっかりやれよ!」
「男が体調が悪くて休むとかヌルすぎる!」

そうやって、自分で自分を精神的に追い詰めて、自分の欲求なんて二の次どころか、生きていく上でそんなもん不要だと思っていた。

社会や会社が、生きる基準。

そうやって、自分が自分にモラハラを続けてきた結果、僕の体と心はうつ病という形で、強制終了となった。

生きてるのか死んでるのかもわからない状態。すべてが敵に見えたし、社会に必要とされていない無価値観に苛まれ、でもどこか、そのショックから逃避している感覚。

自分が自分にモラハラ行為をはたらいていたから、この時期を「モラハラ期」と呼んでいる。

そこから程なくして、心のことを学び始める。

2.わかば期

2.わかば期

心の学びは、ひたすらに自分と向き合った。これまで頭ばっかり思考ばっかり使ってきた人生だったから、自分がどんな感情があるのか、その感情を抱いているときの感覚はどんなものか、まったく感じないしわからないところからのスタート。

いや、ひどかったよ。

でも少しずつ何を感じているか、どんな感情があるかがわかるようになって、たとえネガティブな感情だったとしても、それは大切な僕の感情で、必要だから湧いてきているものなんだと、一つ一つを受け入れていった。

セラピストから「これも自分を愛してあげるってことなんだよ」と教えられて、そうなんだと思ったことを覚えている。

感情や感覚を受け入れていくと、自然と先の頭の中のモラハラ男は、少しずつ静かになっていった。

毎朝お白湯を飲むのが日課だったけど、あたたかいコーヒーが飲みたいと思ったら飲むようにした。

少し肌寒いと思ったら、もう一枚羽織るようにした。

トイレに行きたいと思ったら我慢せずすぐ行くようにした。

休みたいと思ったら休むようにした。

あー、自分を愛するって、自分の内側で起きていることや欲求に気づいて、それを叶えてあげることなんだと、ちょっとだけ自分に優しくできるようになっていった。

自分の感覚に気づき、それを大切にしていくことで、モラハラ男が静かになっていったから、この時期を、自分を愛し始めた初期の段階なので「わかば期」と呼んでいる。

でも、それを続ければ続けるほど、僕の中で強くなる感覚があった。

3.混乱期

3.混乱期

それは、嫌悪感だった。

だってこれまで、会社のために、社会のために、人のために・・・って自己犠牲が通常運転で、さらには、奉仕をすることで初めて認められる・愛されると思ってやってきたから。

そうやって、自己犠牲や奉仕をすることで他人から愛されると思い込んでいるから、「自分を愛する」なんてやっちゃうと、人から愛されるチャンスを奪われるくらいに感じていた。

そうやって、「自分を愛する」ことが、わからなくなってきた。

たとえば、「今日はだるいから、仕事を休みたい」という欲求があるから、仕事を休むことが果たして本当に自分を愛してあげることなのか。

「今日が納品締め切りの提出物があるけど、ゲームがしたい」からといって、ゲームをすることが果たして自分を愛してあげることなのか。

つまり、エゴの欲求なのか、魂の欲求なのか、そのどちらからの欲求なのかがまったくわからず、自分を愛することをどう扱えばいいのかがわからなくなってしまった。

自分を愛することに疑いを持ち始めた時期なので、この時期を「混乱期」と呼んでいる。

この時期が一番長かった。自分を愛することに取り組んだ8年のうち、ぶっちゃけ7年は混乱してた気がする。

4.ご自愛期

4.ご自愛期

でも諦めずに、間違っててもいいから「これが自分を愛するということなんじゃないか?」と思いながら続けると、少しずつわかるようになってきた。

何がわかったかというと、 自分を愛してあげたあとの感覚を基準にすればいい、ということ。

たとえば、さっき言った、
「今日はだるいから、仕事を休みたい」という欲求があって、それを叶えてあげた後、しっくりこなかったり、焦りや不安があれば、それは違うということ。

逆に、叶えてあげた後、なんとも言えないリラックスした感覚だったり、満足した感覚があれば、それは合ってるということ。

そうやって【感覚】を頼りに、自分を愛することをやっていった結果見えてきたのは、

『自分の命の使い方』だった。

つまり、

自分を愛するということは、
使命に基づき、本当にやりたい事に向かって、
全力の愛を持って接してあげること

by ヤマガータ・タッツヤ

だと思っている。今のところ。

だたただ自分に「いいよ」「大丈夫だよ」「そのままでいいよ」「やりたいことやっていいだよ」と、欲求に対してすべてに許可を与えて生きていくだけでなく、

時には、使命に基づき、やりたいことを実現するために、「今は頑張ろうよ!」「今日は寝ずに終わらせてしまおう!」「俺がならないと誰がやるんだよ!」と叱咤激励することも、自分を愛することなんじゃないかな。

その様子は、これまでお世話になってきた尊敬する恩師や上司、先輩方の僕への接し方、眼差しに似ている。

そういう態度で接してくれたからこそ、記憶に残っているし、愛されてたんだと実感できる。

僕が心から本当にやりたいことを実現するべく、時には厳しく、時には優しく。

このように自分と接することができるようになった時期を、「ご自愛期」と呼んでいる。

今の僕は、この段階にいる。この先も、いろんな段階があると思う。けど、こうやって一歩一歩あゆんできたプロセスを振り返ると、一つも無駄な経験ってなかったと思える。

僕が経験してきて言える「自分を愛するとは?」は、

巷で言われている「自己愛」「自愛」「自分を愛する」「自分を大切にする」、その方法や意味とはまた違うものかもしれない。

でもこれが僕に言える、「自分を愛する」ということ。

ここまで読んでいただけると疑問に思われるのは、「使命」や「自分が本当にやりたいこと」ってどうやって見つけるのよ?ってことだろう。

もちろん、ここはとっても大切なこと。2024年は、この辺りもしっかり発信していくので、楽しみにしててください。

自分を愛することについて振り返りながら、感じていることをバーッと書いてみた。

僕と似たようなプロセスを歩んでいる人いるかな?
または違うプロセスがあれば、ぜひ聞いてみたい。教えて欲しいです。

最後まで読んでくれて、ありがとう!